- 公衆衛生から始まる社会のボトムアップ -
帝京大学薬学部環境衛生学研究室 教授 山本秀樹
1994年ハーバード大学公衆衛生大学院修了、2011年まで岡山大学にて助手?講師?准教授を務める。勤務の傍らAMDA(アジア医師連絡協議会)事務局長?副代表を務め海外の難民救援事業、阪神淡路大震災救援活動に参加。1998-2000年JICA(国際協力機構)ザンビアプライマリー?ヘルス?ケアプロジェクトに従事して、ザンビア共和国の首都ルサカ市における貧困地区の住民らと参加型公衆衛生活動を実施した。
2005年より岡山大学大学院環境学研究科において、「いのち(生)をまもる(衛る)環境学教育」「ユネスコチェアプログラム(ESD)」を担当。2011年4月に帝京大学公衆衛生大学院の設立に伴い本学教授に就任。国際的公衆衛生専門家を養成するMPH(Master of Public Health)プログラムに携わってきた。2020年4月より薬学部環境衛生学研究室に異動、パブリックヘルスマインドを持って地域社会において活躍する薬剤師の養成をめざしている。
現在、世界中が新型コロナウイルス感染症によって大きな影響を受けています。人類と感染症(疫病)の戦いは太古から現在に至るまで綿々と続いてきました。社会が健全でいるための前提のひとつに生活者の健康があります。ここに「公衆衛生」という重要な概念が生きています。たとえば、感染症の原因となるゴミの問題をどう解決するのか?上下水道による衛生環境の向上をどう達成するのか?家庭において心身を健康に保つための食の話をどのように考えるのか?こうした、一つひとつの課題を解決しながら、人類は感染症に強い社会構築をめざしてきました。特に日本は、公衆衛生の代表的な指標である平均寿命や乳児死亡率の低さも世界トップレベルであり、感染症についても世界と比較したときに爆発的な感染が起きにくいとされる社会状況からも、公衆衛生?保健医療が行き届いている国家のひとつであると評価されています。
その実現には並々ならぬ叡智が注がれています。国の取り組みはもとより地域の協力(住民参加)も必要不可欠でした。鍵は社会教育にあります。特に世界で高く評価されているのは、近現代の日本における「公民館」をプラットフォームにした社会教育システムです。第二次大戦後の我が国は貧困、栄養不良、結核をはじめとする感染症が蔓延しており、保健医療制度も十分でありませんでした。こうしたなか、地域住民が地域社会で愛育委員、保健委員、生活改善委員、栄養改善委員等の役割を担い、地域社会に設置された公民館を生かし、地域住民の学びあいを通して、公衆衛生の向上に有用なさまざまな活動(「ハエのないまちづくり」「生活改善運動」「減塩運動」等)を各地で展開したことが、地域での公衆衛生活動に対する意識の向上につながったのです。
世界に冠たる日本の社会教育システムがひとつの充実を見ることになったきっかけは、日本の占領政策を実施するために設置されたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の存在にありました。彼らは、軍国主義的な教育を民主的なものに変えていくために、日本の教育改革に乗り出します。児童?生徒を対象とした学校教育として日本に浸透していきますが、当時から成人の教育をどのようにするのかは課題でした。注目されたのが、戦前から活用されてきた公会堂や隣保館といった公共施設の存在だったのです。
1946年(昭和21年)には、当時の文部省社会教育課長の寺中作雄によって発案された「各地に公民館を作る」という構想(寺中構想)がGHQにも支持され、文部省次官通牒として全国に伝わりました。結果、1949年の社会教育法の中で明文化されることになります。公民館を生かした社会教育システムが法律という裏付けを得たのです。日本国憲法第25条の存在もこのアクションを後押ししました。第1項に記された”?文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。“という条文はあまりに有名ですが、第2項に「国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と「公衆衛生」について記されています。医療系の国家資格(医師法、歯科医師法、薬剤師法、保健師助産師看護師法等)の第1条に必ず「公衆衛生の普及?増進等」の記載があるのも、こうした流れを受けてのこと。これは世界的に見て極めて稀なプロセスなのです。
2014年10月、ユネスコが主催した世界公民館会議(正式名称: ESD推進のための公民館-CLC国際会議)が岡山県岡山市で実施されました。これは、国連ESDの10年(2005-2014)を総括する国際会議で、私は実行委員のひとりとしてかかわりました。ESD(Education for Sustainable Development:持続可能な社会をつくるための教育)とは、持続可能な社会をつくるために社会全体に必要な教育の普及を推進するものです。当時、岡山市は岡山大学と協力し、公民館を活用した取り組みに関して国連大学のモデル地域の指定を受けていました。一方のユネスコは、日本の公民館をモデルにしたCLC(Community Learning Center)を1990年代からアジア諸国で展開してきました。CLCは主に、成人の識字学習や生活改善を目的としていた施設です。途上国において保健や衛生は生活課題として重要な課題であり、公衆衛生と社会教育の仕組みは世界的に注目されています。
この会議において重要なテーマのひとつだったのがMDGs(ミレニアム開発目標=現在のSDGsの前身)です。2000年に始まったMDGsによって、途上国を中心に経済的に大きな底上げが達成され、乳児死亡率の低下やエイズ対策など、公衆衛生面の向上がもたらされたことは事実です。しかし恩恵にあずかれない人たちが少なからず生まれていました。CLCはそのうねりの中心の一つでもあったのです。2015年からMDGsがアップデートされスタートしたSDGs(持続可能な開発目標)では、ジェンダーやマイノリティといった社会的弱者をセーフティネットから落とさないように熟慮が重ねられています。SDGsが掲げる17ゴール内のゴール3は「すべての人に健康と福祉を」、ゴール4は「質の高い教育をみんなに」となっています。公民館における公衆衛生活動に代表されるような、地域社会を巻き込んだ社会教育と公衆衛生の連携を通して持続可能な社会の基盤を構築していくことは極めて重要なテーマとして、世界に認知されています。
世界公民館会議では、現在、私が帝京大学で実践している活動のベースになる出会いがありました。会議の中で、日本の優れた事例として板橋区のNPO法人であるボランティア?市民活動学習推進センターいたばしの事例が取り上げられており、市民団体の面々と知り合う機会を得たのです。板橋区はSDGsの全国自治体ランキングでもトップ10圏内で、東京都内の自治体ではNo.1です。NPOをはじめとする市民団体の数も多く活動も活発です。本学は、板橋区に医療系キャンパスがありさまざまな人的リソースを保持しています。2014年には包括協定を結んでおり関係性も良好です。すでに医療技術学部スポーツ医療学科救急救命コースは、実際に地域の防災訓練に参加しネットワーク構築に注力しています。また、八王子キャンパスの教育学部?丹間康仁准教授(現:千葉大学)の研究室では隣接した日野市の公民館の活動社会教育の専門家としてアドバイスを行い、ゼミ生が住民らと公民館の活動に参加しています。総合大学である本学の教員がもつ専門的な研究成果も地域において共有されれば、経済の活性化や新しい起業創出につながることも考えられます。
2019年3月に「SDGsいたばしの集い」が行われ、私は世話人として参加しました。我々はこの会の一年前から、板橋区が推進する社会教育と活動を実施するための環境整備プロジェクトに参画してきました。この会は報告と可能性を共有する目的で実施され、熱量のある議論や取り組みについての情報交換が行われました。続く同年7月、帝京大学において先端総合研究機構の起工式が行われました。2021年の開設をめざす同機構のコアテーマにはSDGsが掲げられ、大学としての新しい存在価値の構築が強力に推進されていくことになります。地域社会をより良くすることが究極的に生活者の健康状態を良くするという公衆衛生の基本スタンスは社会のあらゆる面に応用可能です。全世界が注目する日本の公衆衛生と社会教育の仕組みを生かし、板橋という地域で新たな「地域に根差した SDGs」の先進事例を本学と構築することができれば、板橋が「SDGsのメッカ」として大きな存在感を世界に示すことにつながると確信しています。